吉村萬壱『臣女』巨大になり続ける女【あらすじ・解説】

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今回は吉村萬壱『臣女』のあらすじと解説を紹介します。

あらすじ

非常勤講師の傍ら文筆業にいそしみ、妻の奈緒美とふたりで暮らす文行。彼の犯した不倫が発覚した夜、妻の身体が突然巨大化しはじめた。

止まらない細胞分裂に苦しみながら、奈緒美は野菜や肉を貪り、大量の排泄物や吐瀉物を撒き散らしてどんどん成長する。

彼女を家に閉じ込め、近所の目から隠しながら介護をつづける文行だったが、排泄物による異臭騒ぎを発端として、次第に隠蔽もままならなくなっていく。

追い詰められた文行は、ある決断を迫られる。

【考察】妻を閉じ込めるうちに、自分が閉じ込められる夫

巨大化し、痛みに悶える妻を目の当たりにしたら、多くの人はまず彼女を病院に連れて行こうとするのではないでしょうか。しかし、文行が奈緒美を病院に連れて行くことはありません。

「医者を呼ぶか?」と彼女に「聞えるか聞えないかの声」で尋ね、返事も聞かぬ間に「首の痙攣や手の震えの中に、医者や公的機関を拒否する彼女の意思を読み取」る文行の行いには、自分の不倫を発端として苦しむ妻のグロテスクな姿を世間から隠したいという欲望が見え隠れします。

その「世間」にあたる人びともまた、一癖二癖ある人物ばかり。

例えば文行の浮気相手である敦子は、文行と別れて以後も執拗にメールを送り続け、彼を翻弄しますが、結局自己憐憫に浸っていただけであったことがわかります。

また小説家志望の同僚・中林は、文行の生活や家賃などを嗅ぎ回る卑しい人物で、小説の連載を持っている文行に対して陰湿な眼差しを向けます。

「奈緒美の安全が保証されるまで」「病院すら信用出来ない事が問題なんだろう?」「僕は可能な限り奈緒美と一緒にいたいだけだ」という文行の台詞は、こうした人びとの醜悪さを根拠にしてみれば、頷ける部分もある主張です。

しかし同時に、奈緒美のことを思うかのような口調で彼女を閉じ込めようとした結果、ひとりで問題を抱え込み、結局自分自身が袋小路に閉じ込められることになってしまう彼の顛末には、「家庭」という閉鎖的な共同体特有のブラック・ユーモアが漂います。

【考察】裏切った女性が「生きつづける」という絶望

奈緒美を世間の目から隠そうとする文行は、過干渉な実母や近隣住民、そして勤務先の知り合いなど、あらゆる人びとから疑いの目を向けられることになります。

そんな文行の様子は、まるで妻の死体を隠す夫のようです。

実際、外に現れない奈緒美を案じて家のなかへ押し入ってきた母の「見られて困るものは見ない」という言葉や、戦争体験者の老人が文行の家から漂う臭いを嗅いで発した「あの臭いは死体だ」という感想などからもわかるように、周囲の人びとは明らかに、文行に対して殺人の疑いをかけているようです。

文行の身体にまで染み付いた腐臭に、庭に出た奈緒美を隠すためにやむなく被せられたブルーシート。

たしかに、文行の不自然な挙動を家の外から見ていると、実際には奈緒美はすでに命を落としていて、彼女がまだ生きていると思っているのは文行だけなのではないか? と感じてしまうほどです。

しかし一歩家へ踏み入るとそこには、これでもかというほど生々しい、奈緒美の「生」があります。

激痛で暴れる奈緒美によって破壊された家具の転がる部屋には、巨大な胃から上がってくる呼気の臭いが満ち、横たわった奈緒美の分厚い皮下には未知の寄生虫が走り回ります。

とりわけ、日々排泄される大量の糞便と、激臭を放つ紫色の吐瀉物の処理は、文行の日常を否応なしに蝕んでいきます。

文行は献身的に介護を行いながらも、心のどこかでは、「奈緒美がもし命を落としたら」ということを考えずにはいられません。

「奈緒美が死んだら天も裂けんばかりに慟哭し、のたうち回り、世界そのものに当たり散らして、そしてそれで済ませてしまおうとするナルシスティックな自分の心が見え隠れし、その巨大なカタルシスへと否応なく傾いていく自分の怯懦を押し留められない」

吉村萬壱『臣女』徳間書店(2014)

ここで、奈緒美の巨大化事件の発端を振り返ってみましょう。それは、文行が敦子という女性をめぐって犯した奈緒美への裏切りです。

もし敦子に心を奪われた文行が、周囲の人びとの疑惑通りに、奈緒美を殺害してしまっていたら?

このアナザー・ストーリーは、「夫からの裏切りによって苦しみ、儚く散る妻」という、物語としては「美しい」構図を作りだすでしょう。

皮肉なことですが、そうしていっそ完全な悪になりきり、奈緒美の存在を亡きものにしまったほうが、文行にとってもまだ都合がよかったのではないでしょうか。

自分が裏切りを犯した女性が、家という閉鎖空間のなか、無視できない状態で苦しみながらもたくましく生きつづけること。そして罪悪感と愛情とエゴの入り混じる献身の日々——。

終わりの見えない奈緒美との生活は、この無責任な男にとっての最大の絶望であり、最大の裁きであるといえるのかもしれません。

【考察】奈緒美は自分の意思で巨大化したのか?

「自分の意志で身体を作るという事が、出来たのか。だとすれば、彼女自身そんな力が自分にあるとは今まで気が付かなかったのであろう。」

吉村萬壱『臣女』徳間書店(2014)

これは、必要に応じて積極的にものを食べ、身体を巨大化させている奈緒美を見た文行の感想です。

しかし、彼女は本当にこの場面に至るまで、自分が自発的に巨大化できることに気が付いていなかったのでしょうか?

もしこれが文行の楽観的な推測にすぎず、奈緒美が序盤から自分の意思で巨大化していたのだとすれば、巨大化とは文行に対する身を挺した復讐であり、同時に彼を繋ぎ止めるための愚直な鎖であったのかもしれません。

「夫からの裏切りに苦しみ、変貌する妻」。

島尾敏雄『死の棘』なども彷彿とさせるテーマですが、本作の異様さは、妻がほとんど発話できないことにあります。

奈緒美が内心、何を思っていたのかは、読者の解釈にゆだねられることでしょう。

 

『臣女』は映画化する予定

2023年2月に『臣女』の映画作成資金調達のため、パイロット撮影が行われました。今後、吉村萬位置先生の世界を映像でも楽しむことができるかもしれません。

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