筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』異様な反復記述【あらすじ・考察】

小説

奇妙な話を紹介する奇譚展へようこそ。

今回は筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』のあらすじと考察を紹介します。

あらすじ

主人公である“おれ”は、父亡き後に家族を養うため、美術評論家として評論文を書いて生計を立てていた。

ある日、おれの妹が「ねえ。誰かが家の前で喧嘩してるよ」と書斎に入ってくる。家族たちを奥の間に移動させ、おれは2階の窓から外を見下ろした。

大学生とやくざが喧嘩しており、それを眺めながら物思いに耽るおれ。

決着が付き、また書斎に戻って評論文に取り掛かる。

すると「ねえ。誰かが家の前で喧嘩してるよ」と妹が書斎に入ってくる——。

同じ場面が何回も――コピー&ペーストで構成された世界

この作品『ダンシング・ヴァニティ』は同じ場面が何度も繰り返されながら、ストーリーが進行していきます。

冒頭の喧嘩は、計3回も行われ、同じような文章が続きます。

「ねえ。誰かが家の前で喧嘩してるよ」浴衣姿の妹がおれの書斎に入ってきて言った。

 書斎は裏庭に面しているので、前の通りの物音はほとんど聞こえない。それでもかすかに地底で大勢が呻き、叫ぶが如き不吉な音声が聞こえて来てはいたので、おれは妹に言った。「みんなを奥の間につれて行け。とばっちりを受けるとつまらんからな」

(中略)

おれは窓を閉め、小部屋を出て階段を降りた。書斎に戻り、机の前に座って、書きかけの原稿を読み返し、続きを書きはじめた。

(中略)

「ねえ。誰かが家の前で喧嘩してるよ」妹が廊下との境の襖を開けて入ってきた。

 前の通りの物音はほとんど聞こえないのだが、それでもさっきからかすかに銃声のような物音が聞こえて来てはいたので、おれは妹に言った。「みんなを奥の間につれて行け。とばっちりを受けるとつまらんからな」

筒井康隆「ダンシング・ヴァニティ」(2011)新潮文庫

しかし、その喧嘩の内容は少しずつ変わっています。

1回目は「大学生とやくざの喧嘩」、2回目は「やくざ同士の喧嘩」、3回目はなんと「相撲取りたちの喧嘩」なのです。

回数を重ねるごとに事が大きくなるのですが、それでもおれやおれの家族は動じる事はありません。

また、このやりとりは中盤にも出てきます。

「ねえ。家の前で戦争が始まってるよ」帰ってきてから二日目、巨体をランニング・ウエアーのように見える粗末な服に包んだ妹が書斎に入ってきてそう言った。

 さっきから前の通りでしきりに銃声が聞こえて来ていて気になってはいたのだ。おれは妹に言った。「家族を奥の間につれて行け。とばっちりを受けることは確実だ」

筒井康隆「ダンシング・ヴァニティ」(2011)新潮文庫

これは、おれが見ていた夢の内容です。

家の前では、国籍不明のアジア人兵士たちが撃ち合いをしており、終わった後にその部隊の将校がおれを指差します。冒頭では見つからなかった出歯亀が、ついに見つかってしまうのです。

またこの場面も繰り返しており、1回目は「アジア人兵士たち」、2回目は「褐色肌をした兵士たち」、3回目は「日本内の外人部隊」と、何度も見つかります。3回目に関しては将校に「降りてこい」と命じられ、そのまま列に加えさせられます。

同じような文章やエピソードが3、4回繰り返されてから、やっとストーリーが展開する。なんとも実験的で奇妙な作品です。

現代から江戸時代へ 自由に時代を行き来する主人公

しかし、奇妙な点は「コピー&ペースト」だけではありません。

主人公のおれは浮世絵の評論を書くために、浮世絵の始祖が誰なのかを調べ始めます。

しかし、おれのパーティで型通りの祝辞をしてくれた大学時代のわが恩師によれば、真に浮世絵の元祖といえるのは岩佐又兵衛という人物であるということであり、事実、大田蜀山人の「浮世絵類考」を見るとこの人物のことを「按ずるに是世にいわゆる浮世絵のはじめなるべし」と書いている。

(中略)

その辺のことを調べるにはやはり師宣が住んでいたところに行って直接あたってみるしかあるまい。そう思い立ち、長くマンションに妻や娘を置き去りにしたままなのを気にしながらもおれは実家から出て万治三年の江戸へやってきた。

筒井康隆「ダンシング・ヴァニティ」(2011)新潮文庫

「浮世絵の始祖は菱川師宣か、岩佐又兵衛か」という疑問から、急に現代から江戸へ舞台が移動。おれは武士の格好をして師宣が住んでいた付近を散策します。

普通の小説ならば、現代から過去へと移動する装置としてタイムマシンが出てきそうなものですが、この『ダンシング・ヴァニティ』では、設定等を無視した時間移動があっという間にできてしまうのです。

そんな力技が他にも多用され、さらに物語は複雑化していきます。

【考察】“おれ”につきまとう「フクロウ」の正体とは?

この作品の中でキーとなるキャラクターがいます。

それが主人公を見守り続けるフクロウ。彼は絶対に入り込めないような隙間から顔を覗かせ、じっとおれのことを観察し続けます。

フクロウという生き物は「森の番人」として昔話や民話に登場することが多く、困っている主人公や登場人物たちに知恵を貸す役割を果たしています。ギリシャ神話では女神アテナ、ローマ神話では女神ミネルヴァの象徴としての側面もあり、どちらの女神も「英知」、「芸術」、「音楽」、「戦略」を司っています。フクロウもそれにあやかり「学問の神」として扱われることがあります。

日本では「不苦労」や「福来郎」といった当て字ができるので、縁起のいい生き物だと言われており、招き猫のようにフクロウの置き物やグッズを置いているお店も少なくありません。

ですが、この作品内のフクロウはおれに干渉しません。ただじっと見ているだけです。 唯一干渉したのは、13年ぶりに再会した時でした。

十三年ぶりに会う懐かしさでおれはフクロウの方へ這い進み、彼との距離が一メートルほどに近づいてからまん丸に眼を見開いているフクロウににじり寄り、顔を寄せていう。「やあ。久しぶりだな。あいかわらずおれに批判的なのかい」

 その途端、フクロウはビルの蔭から歩道に出てきた。短い足であたりを歩きまわり、からだを左右に大きく揺らしながら彼は歌いはじめた。

筒井康隆「ダンシング・ヴァニティ」(2011)新潮文庫

この歌を歌手であるおれの娘と姪が歌ったことで、更なる人気を博し、おれの家族はとても裕福になりました。もしこの歌が「英知」を表現しているとしたら、フクロウはおれの人生にひとつだけ転機をもたらしたことになります。

しかし、それ以降フクロウは出てきませんでした。

金銭的に裕福になり、美術評論家としての地位も上がったおれは、加齢と共にどんどん横暴になっていきます。娘と姪のファンをステッキで叩いたり、若い画家を踏んづけたり……最後にフクロウが現れたのはおれが死ぬ直前でした。

ぼんやりとだが枕辺で白い顔のフクロウがおれの顔を覗きこんでいるのが見えた。その片方の目がしらに一滴、涙が光っている。

筒井康隆「ダンシング・ヴァニティ」(2011)新潮文庫

フクロウは「学問の神」や「縁起物」という良い側面だけでなく、「死の象徴」としての一面も兼ね備えています。西洋では悪魔や魔女の使いとして描かれていることが多く、日本やアジア各国でも「悪いもの」としての伝承が残っています。

“おれ”にとってのフクロウは、どちらだったのでしょうか。

【考察】リセットした先……分岐点を変えても「変わらない結末」

何度も繰り返される場面の中でも、おれはしっかりと年老いていきます。

昔は若者たちを一喝できたのに、老いて身体がボロボロになったせいで若者たちに返り討ちに合い、病院に運ばれる主人公。その時におれはこう思います。

そういえば過去、おれはいくつかの岐路に立ったことがあった。ベストセラーにならなくて落魄するという選択肢もちらりと出てきた。あの時も結局そちらを選ばず、当然のように自分がしあわせになる方を選んでしまった。

(中略)

しかしもうあと戻りはできない。

筒井康隆「ダンシング・ヴァニティ」(2011)新潮文庫

おれは何度も同じ場面を繰り返していることを自覚していました。

それはまるでゲームのセーブポイントのようです。セーブしたところからやり直し、別のルートを見てみる。その中から自分の好きなルートを選択し分岐していく……それがこの作中で行われていた「コピー&ペースト」なのかもしれません。

『ダンシング・ヴァニティ』では、主人公の分岐ルートがいくつも見られる構成になっています。しかし、どこかで大きなイベントが起こったとしても、人間には「死」という結末しか残っていません。

どんなに死から逃れようとしても老いがやってきて、それによって静かに死んでいく。

諸行無常、盛者必衰、たけきものもついには滅びぬ。

そんなメッセージ性を感じる作品です。

 

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