吉村萬壱『ハリガネムシ』暴力の欲望に寄生された人間【芥川賞・あらすじ・考察】

小説

奇妙な話を紹介する奇譚展へようこそ。

今回は吉村萬壱の芥川賞受賞作『ハリガネムシ』のあらすじと考察を紹介します。

あらすじ

高校で倫理を教える若い教師・慎一は、副担任を受けもつクラスで起きたリンチ事件への対応や、勤務先の女性とのぎくしゃくした関係のなかで、満たされない日々を送っていた。

そんな彼の生活に突如として飛び込んできたソープ嬢・サチコ。小さな身体で常に暴力と隣り合わせの世界に生き、子どもっぽい言動とは裏腹に手首に無数のためらい傷をもつ彼女と過ごすうちに、慎一のなかに潜んでいた暴力への欲望が頭をもたげる。

危険な快楽を求め、彼は少しずつ足を踏み外していく。

「ハリガネムシ」という寄生虫

本作のタイトルである「ハリガネムシ」とは、その名のとおり黒く長い針金のような姿をした寄生虫の一種です。英語では「hair warm(=髪の毛ワーム)」とも呼ばれ、カマキリやコオロギ、バッタなどに寄生し、その行動を操ってしまうことで知られています。

ハリガネムシは、川などの水中で卵から生まれると、まずハエの幼虫のような小型の水生昆虫に寄生し、その体内で「シスト」と呼ばれるサナギのような状態になります。そして、寄生していた水生昆虫がさらに大きなカマキリなどに捕食されると、今度はその捕食者のほうに寄生するのです。

ここで寄生された捕食者を、仮にカマキリとしてみましょう。カマキリの腹のなかで成長したハリガネムシは、繁殖のために水中へ戻る必要があります。

すると彼らは、自分たちが寄生している生物=宿主であるカマキリの行動をジャックするのです。

泳げないはずのカマキリはハリガネムシに操られ、水際へと向かいます。そしてカマキリが水面に肛門をつけると、そこから成長したハリガネムシが出てきます。多くの場合、カマキリは衰弱し、まもなく絶命してしまうといいます。

まるでゾンビのように、生きながら死んでいるも同然の宿主の立場を考えると、なんともショッキングな生態といわざるをえないハリガネムシ。

本作の主人公・慎一の「ハリガネムシ」=暴力への欲望は、その孤独とありあまる性欲を栄養として成長していきます。とりわけ社会の底辺で生きるサチコを軽蔑しつつ、弱いものを支配し虐げる悦びを肥大させてゆく彼の姿はおぞましいものです。

しかし、幼い頃に、自分より弱い虫をいじめて遊んだような思い出が、ある方も多いのではないでしょうか。

慎一の行動をグロテスクに感じつつ、心のどこかで密かに共感してしまう読者もきっといるはずです。

寄生虫は、その成長に適した宿主がいなければ生き延びることができません。

「ハリガネムシ」は、誰の心にも入り込む用意があるのだといえるでしょう。

「サチコ語」が醸しだす絶妙な不安定さ

本作の中心人物であるサチコの大きな魅力のひとつが、彼女の話す珍妙な言葉です。

「ウッソー。ウソウソーッ。もほほほほほ。じゃっ!」

吉村萬壱「ハリガネムシ」(2003)文藝春秋

「もうシャブはしねーだす」

吉村萬壱「ハリガネムシ」(2003)文藝春秋

「ま、色々ずら」

吉村萬壱「ハリガネムシ」(2003)文藝春秋

こうして幾つか書き出してみただけでも、彼女の醸しだす掴みどころのない雰囲気やふらついたような佇まい、そして酔った息づかいまでもが伝わってくるのではないでしょうか。

「方言を捨て、『にゃ』とか『ずら』とか幼稚な言葉ではしゃぎまわ」ると描写されるサチコの言葉使いは、どこから来たのかも、またどこへ帰るのかもわからないような不安定さをはらんでいます。

実際、夫との関係は破綻し、慎一と結婚しようとすれば彼の家族に止められ、施設に預けられたふたりの子どもと小さな家庭を築くこともできず、故郷の徳島に戻れば地元のチンピラに暴力を振るわれる彼女は、どこにも帰ることができないようです。

ハリガネムシが初めに寄生するハエの幼虫は、けっして大人になれないまま、カマキリなどに食べられて一生を終えます。

痩せた小柄な女・サチコの子どもっぽい言動が、その姿とどこか重なります。

いずれにせよ、もしサチコが私たちと同じような普通の話し言葉で喋っていたら、本作はまったく違ったものになっていたでしょう。

ハリガネムシを裁くことはできないのか?

倫理の教師である慎一は、次学期に「20世紀の悲劇と国連の役割」を扱う計画を立て、授業準備に取り組んでいました。

当初は、戦争を止めることのできない「国連の事なかれ主義」リンチ事件を裁くことのできない学校を重ね、糾弾する立場をとっていた慎一。事件に関与した生徒の家を訪れた際も、「その場にいて止めないなら暴力に荷担したのと同じ」という主張を繰り広げます。

しかし、サチコとの日々のなかで、ほかならぬ彼自身が、暴力のもたらす快楽に抗えなくなっていくのです。

あくまでも慎一の個人的な性倒錯としても読める暴力への欲望が、「終わらない戦争」という現実のテーマに接続されたとき、私たちは、暴力の歴史のなかにもまた「ハリガネムシ」の姿を見ることになります。

ハリガネムシが寄生し、カマキリたちの行動を操るのは、生物として命をつなぐためです。それが私たちの目にショッキングなものとして映ったとしても、ハリガネムシの寄生自体を裁くことは誰にもできません。

戦争や暴力もまた、それ自体が独立し生きた存在として、時代をこえて人間に寄生しつづけているのでしょうか。

まとめ

今回は吉村萬壱の「ハリガネムシ」を紹介しました。戦慄の芥川賞受賞作、ぜひ一度読んでみてください。

 

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