奇妙な話を紹介する奇譚展へようこそ。
今回は芥川賞作家・吉村萬壱『流卵』のあらすじと考察を紹介します。
あらすじ
57歳の「私」が死の床でふと目にした父の足は、歪んだ思春期の記憶を少しずつ蘇らせた。息詰まりするような家庭不和と母からの抑圧、そして存在の不安の中で目覚め始めた性欲が歪な形に捻れた中学生時代。
魔術やオカルトへの陶酔と、自瀆の後の悔恨を往復しながら、13歳の「私」はやがて穢れなき若い魔女としての自我を織り上げる。森の中での露出行為、同級生から買ったシンナーの吸引、母から投げかけられた「ヘンタイ」の言葉……。
命懸けで迷走する「私」の足取りは、やがて両親へと向けられていく。
「足」をめぐる回想
母と共に見舞った病床の父の「足」をきっかけに膨らみ始めた、「私」こと伸一の少年期の回想。
その中でも真っ先に蘇ってきたのは、まだすね毛も生えていない自分の足を卓袱台の下で執拗に撫で回してくる父の裸足の感触と、明らかに自分を女に見立てたその愛撫に図らずも反応してしまう自分の性器の記憶でした。
中学校へ上がると、大柄で暴力的な同級生・国吉にプールに沈められ、生きるか死ぬかの境地で恐怖に縮み上がる自身の性器に不甲斐なさを感じる伸一。
しかしその夜、死に接近した興奮の中で国吉の逞しい腕にしがみついた記憶を思い起こすと、卑屈で女性的な構えで枕を足に挟んだまま、またもや勃起してしまう自分を発見するのでした。
こうして、女性としての性的興奮を不協和音のように響かせたまま、始まったばかりの伸一の第二次性徴は行き場もなく捻れながら奔走します。
その後も、単身赴任先で不倫をしているらしい父の履く「見た事もないピンク色のスラックス」や、団扇のように広がった母のふくらはぎなど、「足」の回想はどこかしら性的な含みを帯びながら頻出します。
しかしその中でも、女性の下半身を模倣するためにたびたび性器を挟み込まれる伸一の「足」は、「夢想によって現実を捻じ曲げる」魔術やオカルトへの傾倒も相まって、馬鹿馬鹿しくも命懸けの倒錯を読者に提示します。
いや、むしろ倒錯とは常に馬鹿馬鹿しく、そして命懸けのものなのでしょう。
少年が抱く魔女への変身願望
そんな中学二年生の伸一にオカルトの世界を教えたのは、変わり者の同級生・北村晴男でした。
不器用な母の作った弁当のみすぼらしさに引け目を感じていた伸一は、教室でただ一人、弁当を食べずに読書に勤しんでいた北村と親しくなります。彼はある日、伸一にこう告げました。
「人類は滅亡するんや」
吉村萬壱『流卵』(2020年)河出書房新社
彼は唐突にそう言った。彼が面白半分に言っているのではない事だけは、私にも分かった。
「中村君は生き残りたくないか?」
「生き残りたい」私は答えた。
「ししし」
白い歯が光った。
「どうやって生き残るん?」
彼は髪をずらして、秘密の左目を露わにした。
「知りたい?」
「うん」
「超能力使うてヒマラヤにテレポートするんや」
オカルトの知識が豊富で、クラスメイトを馬鹿にし、弁当を食べない理由も「精神の比重を高める」ためだという北村に、伸一はすっかり惹かれていきます。
しばらくは負けじとオカルト知識を身につけ、北村に淡い性愛の感情さえ寄せていた伸一。
やがて西洋の魔女にまつわる本に出会った伸一は、対象も曖昧な性欲の萌芽を抱えたまま、オカルトと性を結びつけ、若く美しい魔女への変身願望を持つようになりました。
私は切実に、若く美しい魔女になりたいと思った。剃髪して出家し、禁欲し、修行に励んで善行を積み、僧侶として悟りを開いて終末を生き延び、極楽浄土に往生出来たとしても、それは絵柄として余り魅力的なものではなかった。北村晴男はこの道を往けばよい。しかしそれよりも、悪魔と契約し、氷のように冷たい悪魔のペニスに全身を刺し貫かれ、秘密の膏薬を塗った箒に跨って空を飛び回る魔女の方が、絵としては圧倒的に素晴らしいと思った。
吉村萬壱『流卵』(2020年)河出書房新社
それからというものの、魔女に取り憑かれた伸一は、森で行われる淫靡な魔女集会へ向かう若く美しい魔女のつもりで、雑木林に分け入り、服を脱ぐ妄想に浸るようになります。
ある夜、伸一はこの「儀式」を実行に移します。
私は獣道を辿って斜面を上り、雑木の疎らな禿げた丘に達すると、ズボンとTシャツをその場で脱ぎ捨てて全裸になった。肩や胸や下腹を優しく撫でていくひんやりとした夜風が、巨大な開放感と興奮を齎した。私は月明かりに照らされて青白く光る自分の皮膚を満遍なく撫で回し、屹立したペニスの先端を月の方向に向けながら激しくオナニーをした。私はこの時、間違いなく魔女だった。どこかから私を監視しているであろうサタンに、私は極力淫靡な姿態を見て貰おうと努めた。
吉村萬壱『流卵』(2020年)河出書房新社
しかし、単身赴任のために父が不在の家庭で、息子を厳しく監視する母の目は、こっそりと用心深く行われたはずのこの息子の奇行を捉えていました。
息子を罪悪感で支配するために幼稚な演技を行い、自分だけがいつも正しい事柄を主張する犠牲者であると信じてやまない母に辟易する伸一は、そんな彼女の叱責をいつものようにやり過ごそうとします。
ところが、その日の母が吐き捨てた言葉は、伸一に大きなショックをもたらしました。
私の中の幾つかの歯車は壊れ、回転はバラバラになった。大きな運命の力に圧殺されそうだった。外でドバトが鳴き、家の柱が軋んで爆ぜるような大きな音が鳴った。我が子に向かって母が「ヘンタイ」と言ったのだ。怖くて堪らなかった。永遠に夜が明けなければいいと思った。
吉村萬壱『流卵』(2020年)河出書房新社
この日を境に、世間や社会において全うな価値観を持つ母と、どうしてもそのようには生きられない自分とのあいだで、まだ不安定な伸一の自己は、性差や法律といったさまざまな境界線を踏み越える迷走ぶりを見せ始めます。
父のバインダーから盗んだ古銭でシンナーを買い、快楽と錯乱と絶望に襲われたり、一転してクラスの健気な女子に憧れながら平凡を志向し、夏休みの宿題に励んだり、かと思えば女言葉で魔女日記を綴ったり……。
そうしてあてもなく彷徨う性と自己の探求の旅は、必然的に、親という建前の裏に欺瞞や逸脱や悪意を隠した、父母の数々の行いへ飛び込んで行くことになるのでした。
魔女の棲む家
夏休みを機に、単身赴任をする父の家へ出かけた伸一と母。
そこで母は自分の夫が不倫を隠していることを悟り、大きな怒りで錯乱状態になります。
帰ってきてからも、母はものを食べず、空っぽの胃から嘔吐し、精神の変調をきたしているようにも見えました。とはいえ、それさえも伸一にはどこか演技じみているように感じられます。
しかしそのうち、伸一の部屋を監視する母がオカルト本をこっそりと盗み読み、憧れの魔女や狂女の様態を垣間見せるに至って、彼は母との境界を失うような恐怖と共に、ひとつの倒錯した嫉妬心を感じ始めます。
私は何としても、母より先に美しい少女にならなければならなかった。
吉村萬壱『流卵』(2020年)河出書房新社
しかし、そんな屈折した欲望もまた、家庭や学校をめぐる幾つかの大きな災難によって打ち砕かれ、抑圧され、さらに歪な形に捻れていきます。
そして中学二年生の伸一は、ひとつの結論を出すのです。
わざわざ這いずり回って探さなくても、依って立つべき堅固な価値の体型は社会によって完璧に準備されていたのである。
吉村萬壱『流卵』(2020年)河出書房新社
空想の世界、そして倒錯の汚泥からゆっくりと足を引き抜いたかに見える伸一。
舞台は、87歳の母と共に父を看取った57歳の伸一へ引き渡され、自分に都合の良い「捏造した物語」を真実として生きる母への冷めた眼差しが語られて、物語は暗くも静かに幕を閉じようとします。
ところが、夜の世界を知る魔女の手腕はいつも、昼に生きる人間を超えているもの。はたして本当にこれで物語は終わるのか。ぜひ自分の目で確かめてみてください。
まとめ
今回は吉村萬壱の「流卵」を紹介しました。吉村萬壱版の「金閣寺」とも呼ばれる本作、ぜひ一度読んでみてください。
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